imaginegargle’s blog

中国文明の揺籃である河南省への旅の準備とその旅路について記すブログ

河南省を往く12

商於

 商於(しょうお)の地とは中島敦山月記」の舞台となる地名であり、これもまた現在の河南省にある。
 李徴の友人、監察御史である陳郡の袁惨がここに宿った。袁惨は勅命を奉じて嶺南に使いする途上であったが早朝人食い虎が出るので出発を遅らせようという駅吏の言葉を振り切って出立し変わり果てた旧友に遭うのである。

 嶺南とは今でいう華南の地であり唐の時代であればまだまだ瘴癘が猛威をふるう未開の地ではなかったか。関中の長安から南の地に行くわけであるから最短のルートは函谷関を過ぎて黄河沿いに行くのではなしに、長安を出て藍田から武関を経て南陽に抜け南下する路である。函谷関が関中の表玄関なら、武関はバックドアだ。

 漢の劉邦が関中に入るために、函谷関でもたついている項羽を尻目にこの武関からするりと関中入りしてしまったために「鴻門の会」という見せ場が用意されたようなものだ。商於の地とはまさにこの武関を通る山間の路にある。地形的に見ても山が道の両側に迫り、ここをせき止められたら通りようがないような文字通りの関所である。

 確かに人食い虎が出現しそうな雰囲気だが、私はまだ行ったことがない。

 「山月記」で著者の中島敦は李徴が虎になった理由を「尊大な羞恥心」とか「臆病な自尊心」とか理屈っぽく書いているが、この話のオリジナル「人虎伝」によれば、袁惨が李徴にかくなるに至った理由を問うのに対して、李徴は「南陽河南省)で後家さんと仲良くなったが家族にばれて会えなくなったのを恨み、その家に放火して何人か焼き殺してしまった。」などと聞きたくもないような体験を回顧するのである。ナーンダ、詩作への執着とかそういう高尚な理由ではなく放火殺人という非道に対する天罰と考えた方がずっとすっきりするではないかと考えるのは私のような凡人である。