河南省を往く41
本村少将の死
北支那方面軍第1軍第69師団歩兵第59旅団長本村少将(戦死後中将に進級)は一号作戦の過程で発動された霊宝会戦の中で戦死した。旅団長の死とはどういう事なのだろうか?
戦史には、虢略の西北方の営田にて地雷により戦死を遂げたとある。まさか先頭をひとりで歩いていて地雷を踏んだわけでもあるまいに、旅団司令部は何をやっていたのだと言いたくもなる。
今日の午後2時に霊宝駅に降り立ったが、そこからホテルまで20分ほど歩いて到着。日差しは暑いが黄河からの川風が涼しく吹いて気持ちいい。
ホテルで荷解きを行い、先ずは洗濯をした。日が傾くのが遅いのでゆっくりホテルを出て坂道を下り、街の中を流れる弘農河の橋を渡って対岸に出た。黄河に注ぐ支流とは言っても相当な幅と流量を持った河川だ。文字通りこの函谷の農業用水となっているようで取水の堰が設けられている。そして途中に河南省名物の道口焼鶏の販売店を見つつ今度は坂道を登りながら歩いて行った。
言わずと知れよう、向かうのは本村少将が戦死した「営田村」である。やがて西陽が照らす坂道の途中に営田の文字が記された街区が出現した。私はそっと頭をたれて、「本村さん、日本から来ました。まああなたはここにはおられないでしょうが、しかし聞きたい。どうしてあなたはあのようななくなり方をされたのでしょうか?」と問いかけたが答えがあるはずもなかった。
弘農河の豊かな流れ
営田の一角
営田の坂道から夕日に照らされた町並みを見る「チョコべ〜」(知ってるかな?)