imaginegargle’s blog

中国文明の揺籃である河南省への旅の準備とその旅路について記すブログ

河南省を往く57

 もう間もなく河南省を離れ、錫山県、江蘇省に入る。車窓の外は曇りだがただ曇っているというだけではないただ事ではない視程の悪さで、スティーブン・キングの小説にあった霧の中から異世界の怪物が人を襲うみたいな怖さがある風景だ。

 などと言っている間に南京に到着だ。河南省を歩いて気付いたことがあって、それは何故この地域にこだわりまた来たくなるのかということだ。それは第一に嘗て初めて訪中した1980年の経験が根底にあるからだ。北京から鄭州に入り初めて足を地につけたのが河南省であった。開封に行き洛陽に遊び西安まで行って帰国した。軟臥のコンパートメントを占拠して楽しかった記憶が老境に入って一層懐かしくなる。

 第二に新しく変貌する河南省の風景にはあまり関心がなく、失われた風景にこそ郷愁を覚えるということだろうか。これも最初の訪中時に多く残っていた風景、例えばプロレタリア文化大革命のスローガンが残る街路の壁とか人民公社の文字とか巨大な星のマークが浮き出た建物の正面とかそういうものだ。現在は都会ではほぼ失われているが農村を歩くとそんな建物などに行き合うこともある。文革時代とはすなわち俺が小学生から高校生までの少年時代の記憶である。あの頃の鬱屈した時代に、切れ切れに中華人民共和国から動乱の響きが聞こえてきた。ラジオをつけ強力に入感する北京放送が紅衛兵の暴れっぷりを報道すると隣の国では何が起こっているのかと胸が高鳴った。ラジオでアナウンサーが「・・・実権派が打倒されました。」と叫んだ暁には、実権を持つものが打倒などされるのか?と喫驚すると同時に実権を持つ者は打倒されなばならないと思ったものだ。

 その実態は後に明らかになったが、中国の若者を扇動して紅衛兵と為し自らの権力維持に利用した4人組には怒りを覚えても、権力奪取に立ち上がった青年たちの赤誠心を全部否定する気にはならない。

 第三に日本との関わりである。日本は中国の近代化に先駆けて明治維新という近代化革命を果たし、それが清国の民主人士を勇気づけた。それがいつの間にか亜細亜の盟主を気取り、夜郎自大の妄想で大陸に侵略を始める。これを言うと当時のロシアから日本を守るためには大陸への進出が不可避だったと反論するのが出てくる。再批判をすべきだが議論は苦手なので俺は黙ってしまう。

 その日本が終戦まで占領を続けていた北の戦線に接するのが河南省である。開封は1938年から洛陽は1944年から日本軍が占領し開封には日本人街まで有ったという。その当時の彼らの版図は国策会社「華北交通」の交通網に重なる。何を考えてこの時代の日本人はこんなところまでやってきては店など開いたのだろうか。

 開封市博物館の近代史の展示には日本人街の存在は全く触れられていない。多分日本人たちは敗戦とともに街を追われ街を捨てて日本に帰っていったのだろう。彼らが残した開封市日本人会の資料が残っているので興味のある方はご覧になると良い。

 現代中国の人たちや国家にとって自国が占領され主権が侵害された歴史は屈辱的であり一顧だにすべき対象ではないのだろう。だが彼らもよく言うように「不忘前事、後事之師」というではないか。

 と、ダラダラ書いていたら終着の上海虹橋駅が近づいてきた。いずれ機会があれば続きを書く。