imaginegargle’s blog

中国文明の揺籃である河南省への旅の準備とその旅路について記すブログ

河南省を往く59

 老境と医者通い

 帰国後一夜明けてぼーっとしたまま過ごしている。気づいたら歯科医に行く時間。愛車の軽トラを駆りお土産のジャスミン茶を持って参上。

 出国直前になって痛みだした歯だが、急遽治療していただき、痛みも無くなって旅に出ることが出来た。こういうのは普段からの心がけで、きちんと治療していれば問題ないのだが年を取るとどこもかしこも傷み出す。

 出国前に行ったのが歯科医、鼻炎治療中の耳鼻科、生活習慣病の主治医(内分泌系)のお三方。耳鼻科の先生には「中国は杉とか無いからかえってアレルギーは出ないと思うよ。」と言われ半信半疑で行ってみたら確かにそうだった。ただあの都市部の空気の中にいたら別の病気になりそうな気がする。内科の主治医からはいつもの薬(高血圧・高脂血症・抗痛風薬)をもらった上に、腸内の環境改善にビオスリー錠を処方してもらう。内科の先生は専攻柄いろいろ病気のことを詳しく解説していただけるんだが、そうするとあとの患者さんがつかえるので看護師の方から鋭い視線がこちらに飛んでくる。先生ご本人が気持ちよくお話しなさっているわけだからいいじゃないかと思うんだが、病院の経営を考えるとそうではないらしいのだ。前回の2019年夏に訪中して体重と尿量の異常な減少を報告したら、先生は「うんそれはね、~~というホルモン分泌によって尿分泌が抑えられるんだよ。」というようなことを熱心に解説された。さすが内分泌科の先生だと思ったが、看護師さんの視線が痛かった。

 

 食べることと出すこと

 ビオスリー錠のおかげで胃腸の働きはすこぶる快調。一人旅は他人に合わせて食事を取らずともいいから気が楽だ。前回はスマホによる決済が出来なかったおかげでものもろくに食えない状態が続き、おかげで一週間に6Kgも体重が減少した。高気温で汗を出しすぎたこともあったかも知れない。脱貨幣に乗り遅れ脱水症状でやられ、という「脱脱ダイエット」だが今回は違ったぞ。

 しかし、もともと屋台で適当なものを喰うなど「買い食いをしてはいけません」と厳しくしつけられた俺にしたら苦手中の苦手。夜市の雑踏は好きだが買い食いはチトな。かといってちゃんとした食堂に入ったら大皿に出てくる料理を一人で喰わねばならない。「出された食べ物を残してはいけません。」としつけられた俺としては食べ残しが罪悪感の元になるのだ。どうやっても一人旅で食事を取ることのストレスになってしまう。結局、「まあいいや、一食抜こう・・・」、という結論になってしまう。今回も三食食べると言うことはまれであり、軽くパンみたいなのをコンビニで買って済ませたりしていた。しかし帰国前夜の俺はどこかが壊れていた・・・。

珍しく頑張って食べた上海、燕雲楼の北京ダック

 こういうときはやはり仲間と数人で旅行する方に軍配が上がる。似たような境遇で歩いている日本人がおれば何となく目が合うと「飯喰いましたか?」などと声をかけてみて、大抵は「イヤまだなんですよ~」と言われて一緒に飯を食うなんていうこともあったが、前回、今回とも旅行中に日本人とは一人も会わなかった。一体どこへ行ってしまったのだろうか。

 それで「出す方」のことだが、前回に懲りて結構食事内容には気を遣い、量にも気を遣って「残すともったいない」などと言いながらどか食いしない、とか毎食冷たいビールのがぶ飲みはしない、とか強い酒飲まないとか、まあ普通の社会人なら日常当たり前のことに気をつけた。おかげでお腹を壊すこともなく旅が続けられたのは良かった。だいたい海外旅行なんかだとついつい調子こいて非日常の生活を続けて自壊してしまうのだ。中国のトイレもだいぶきれいになって使用に差し支えることも無くなりつつあるのではないかと思うが、いや、昔のことは言うまい。

 俺はそもそも神経質な子どもであったので、例えば学校のトイレでウンチするなんて恐ろしいことは出来ない体質だった。家に帰ってからする。これは当時の小学校のトイレがくみ取り式で怖かったというのもある。その体質は今に至っても引き継がれ旅行中はホテルのトイレで完結させるようにしている。

 ウォシュレットというのが商品化されたとき、我が家には比較的最初期に導入された。これは私の父親が痔主であったからである。その恩恵に浴し俺も早いうちからウォシュレットのユーザーだった。というより伝道師であったと言っていい。その俺が中国に行ってウォシュレットのないトイレ生活にどう対応したかを恥を忍んで書く。基本はシャワールームに平行移動し、シャワーでお尻を流す。これは冷たい水や熱湯でやると絶対に支障がでそうなんで適温を遵守するのが常道。さっさとやるには手で洗ってやると時間短縮に繋がる。焦ってやると濡れた床で滑って怪我するから注意。石鹸などは要らぬ。温水で良い。手は洗うこと。

永済の電機賓館から見た向かいの中国中車(高鉄を生産しているメーカー)

 今回の旅行でウォシュレットがあったのは一番の地方都市である永済の「電機賓館」だ。名前が電機だからというわけではないが、ハイテクな部屋で、「ハロ~○○」みたいに呼びかけると電動カーテンは閉まるしテレビは点くしでビックリした。この部屋のトイレはウォシュレットであった。ただし中国製の機器は、日本のTOTOウォシュレットが赤外線着座センサーを備えるのに対して、便座の一部に丸印が付いており、ここの静電容量を感知しているのではないかと思う。5年前に開封の茉舎院墅酒店に泊まったときもこの種の便座が設置してあったが故障していた。それを理由に穴蔵のような部屋から窓の一杯ある部屋に移してもらえたが、そっちも故障していた。多分軒並み故障していたのだろう。故障箇所は水流ポンプだろう。TOTOのマネが効かないところは部品の信頼性やこういう細部なのだ。

河南省を往く58

 本日正午に中国を離れ帰国しました。とりあえず二週間も家を空けてしまったので、免税店で留守を預かる家人にお土産をと思ったのだが、ディオールとかそんな化粧品の店に入ったらいっぱい商品はあるんだが値札が無いじゃん。いくらすんの?これ。

 値段を気にする人は相手にしないようでそそくさと退散。お酒を売る店に入ってマオタイ酒を見たら、なにこの値段!!!俺の知ってるマオタイ酒じゃないぞ。そもそも日本の酒税上の分類では「その他の雑酒」あつかいで、買って帰っても「何?この瓶。クレゾール?」とか酷い言い方されてきた酒なのだ。クレゾールってぼっとん便所にまく殺虫剤だよ。

 そういえば高鉄の駅なんかにこの酒の販売ブースがよく設けられているのを思い出した。これは貴州省かどっかの名産の蒸留酒で全国の高鉄に販売所がある必然性は無いはずだ。これはなんとなくなんだが、この高価な酒、訪問先の企業の関係者にそっと手渡す特殊な「お土産」に使われてるのではないか?そうでもなければ鄭州東の駅待合室にマオタイ酒の販売スタンドが出来る謂れが無い。とまあ、これは憶測だ。

 日本ではウイスキーの酒税が安くなってスコッチウイスキーなんかがかなり安く購入できるようになってきた。ちょっとジョニーウオーカー赤の値段を見たが免税店とさほど変わらない値段になっている。もちろん青ラベルなんかは高くて買えないから、バーで一杯売りしてもらうしかないんだが。

 あ、お土産の話をしていたんだ。結局、龍井茶と扇子を購入して持って帰ることにした。軽くていいやね。

 関空での乗り継ぎも上手くいき、無事に自宅に帰り着くことが出来ました。これから書いてきた内容を見直し、画像を少し豊富に貼り込んでいこうと思います。

河南省を往く57

 もう間もなく河南省を離れ、錫山県、江蘇省に入る。車窓の外は曇りだがただ曇っているというだけではないただ事ではない視程の悪さで、スティーブン・キングの小説にあった霧の中から異世界の怪物が人を襲うみたいな怖さがある風景だ。

 などと言っている間に南京に到着だ。河南省を歩いて気付いたことがあって、それは何故この地域にこだわりまた来たくなるのかということだ。それは第一に嘗て初めて訪中した1980年の経験が根底にあるからだ。北京から鄭州に入り初めて足を地につけたのが河南省であった。開封に行き洛陽に遊び西安まで行って帰国した。軟臥のコンパートメントを占拠して楽しかった記憶が老境に入って一層懐かしくなる。

 第二に新しく変貌する河南省の風景にはあまり関心がなく、失われた風景にこそ郷愁を覚えるということだろうか。これも最初の訪中時に多く残っていた風景、例えばプロレタリア文化大革命のスローガンが残る街路の壁とか人民公社の文字とか巨大な星のマークが浮き出た建物の正面とかそういうものだ。現在は都会ではほぼ失われているが農村を歩くとそんな建物などに行き合うこともある。文革時代とはすなわち俺が小学生から高校生までの少年時代の記憶である。あの頃の鬱屈した時代に、切れ切れに中華人民共和国から動乱の響きが聞こえてきた。ラジオをつけ強力に入感する北京放送が紅衛兵の暴れっぷりを報道すると隣の国では何が起こっているのかと胸が高鳴った。ラジオでアナウンサーが「・・・実権派が打倒されました。」と叫んだ暁には、実権を持つものが打倒などされるのか?と喫驚すると同時に実権を持つ者は打倒されなばならないと思ったものだ。

 その実態は後に明らかになったが、中国の若者を扇動して紅衛兵と為し自らの権力維持に利用した4人組には怒りを覚えても、権力奪取に立ち上がった青年たちの赤誠心を全部否定する気にはならない。

 第三に日本との関わりである。日本は中国の近代化に先駆けて明治維新という近代化革命を果たし、それが清国の民主人士を勇気づけた。それがいつの間にか亜細亜の盟主を気取り、夜郎自大の妄想で大陸に侵略を始める。これを言うと当時のロシアから日本を守るためには大陸への進出が不可避だったと反論するのが出てくる。再批判をすべきだが議論は苦手なので俺は黙ってしまう。

 その日本が終戦まで占領を続けていた北の戦線に接するのが河南省である。開封は1938年から洛陽は1944年から日本軍が占領し開封には日本人街まで有ったという。その当時の彼らの版図は国策会社「華北交通」の交通網に重なる。何を考えてこの時代の日本人はこんなところまでやってきては店など開いたのだろうか。

 開封市博物館の近代史の展示には日本人街の存在は全く触れられていない。多分日本人たちは敗戦とともに街を追われ街を捨てて日本に帰っていったのだろう。彼らが残した開封市日本人会の資料が残っているので興味のある方はご覧になると良い。

 現代中国の人たちや国家にとって自国が占領され主権が侵害された歴史は屈辱的であり一顧だにすべき対象ではないのだろう。だが彼らもよく言うように「不忘前事、後事之師」というではないか。

 と、ダラダラ書いていたら終着の上海虹橋駅が近づいてきた。いずれ機会があれば続きを書く。

河南省を往く56

 劉清霞記念館を見て開封北駅に向かう。記念館の向かいに劉少奇記念館もあるんだが、改修とかで閉鎖中。毎日公安のパトカーが止まっているのは何故。そっと写真撮って道を渡り劉清霞記念館に入る。幼稚園児がたくさん参観に来ていた。


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あ、劉少奇は1980年に名誉回復していました。

 劉清霞という人はものすごいブルジョア出身なんだが、自分の所有する財産を傾けて辛亥革命を支援したという「女傑」です。だから劉清侠なんて呼ばれている。その人の住居が当時の河南省省都であった開封市内にあって、それがこの場所である。どれくらい金持ちかっていうと、北京から南京まで旅するのに「自分の家の水を飲まないことはなく、自分の家以外に泊まることもない。」くらいの財産持ちだった。その彼女が日本に来て女子教育の重要性に気づき私財を尽くして学校を建てるなど教育に力を尽くす。日本が近代化のお手本になり、やがて侵略者となっていく。


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 あ、もう一つ訂正を。包公が龍図閣待制と書いたのはウソで、正しくは龍図閣直学士でした。開封市博物館に行って歴代開封府知事の名前を刻んだ「開封府題名記」の拓本を見ると中央付近に拓本の墨が付かず白く残った部分がある。これが包公の名前が刻んであった場所なのだが、彼を慕う民衆がその名を指で確かめているうちにすり減って消えてしまったのだ。その横に「龍図閣直学士」と残っている。

 劉清霞故居を出たらパトカーが3台に増えていた。

 

河南省を往く55

 今タクシーの中で書いてるんだが、開封の城内の道は狭くて激混みに混み合う。その要因は先ず古い街並みの再開発が困難なこと、それから城壁が残り城門をくぐらなければ外に出られないということだと思う。とにかく大きな街はすなわち古い暦がある街なので、必ずや城壁がある。解放後破壊したあとには道路が敷かれるが環状線とは言い条城壁をなぞった真四角の道路だったりする。

 従ってどこの街も旧城内を離れて城外へと街の開発を進めていくのが定石となるのだろう。今包公湖の横を通っているが、以前はなんだか湿地みたいな所であったのが今は満々と水を湛えた堂々たる湖だ。包公とは北宋の政治家で知開封府だった人物。龍図閣待制だったかで別称「包龍図」。彼の書いた判決は名判決とされ日本の捕物帳などに影響を残すという。

 などという間に城壁を拔けて護城河を渡り広い道に出た。

 これから向かうのは昨日休みだった開封市博物館。今日は開いてるよな?

 開封は見どころがいっぱいある歴史的城市なんだが、今回は博物館中心に見て回るつもりだ。80年代に来た観光地化されていない開封の想い出が強いので、敢えて昔の印象を変えたくない。そこで観光地化されたスポットは行かないようにしている。ただのノスタルジーであるが。


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 博物館はちゃんと開いていて、なんだかすごく広い展示空間だった。展示室は17室位あるんじゃないかな。内容は開封市立だからか開封の歴史を戦国時代から現代まで辿るもので、見応えあり過ぎでとても一日では見きれない。明・清の時代はすっ飛ばして一挙に近現代まで来た。

 辛亥革命後の開封の様子が展示されているのだが、いきなり開封の駅の風景が大きな原寸大蒸気機関車模型のお出迎えでお出迎えする。この時代の河南省軍閥とか北伐などでゴタゴタするが、それが落ち着いたかと思うと1938年の日本軍占領だ。その占領時代のことはあまり触れられていない。現在の開封賓館の建物が日本に接収されていたことくらいだ。まあその建物もアメリカのミッションが開いた貧窮院だったわけだが。

 それから開封といえば「清明上河図」である。この北宋開封の街なかを描いた細密な図は世界に何種類かあるようだが、その複製が展示されている。またスクリーンにその図が流れるように投影され、よく見ると図上の船や人や動物が道を歩いたり橋を渡ったり船の櫓を漕いだりとそれぞれに蕩きが見えるのである。これは面白いので一見の価値がある。
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 博物館のフロアは2階まであるのだが、よく見ると3階にもなにか展示スペースがあるようだ。しかしそこへの道が全く見当たらない。

 一度博物館を出て裏に回ったところ開封市美術館と開封市計画展示館という2つの入口があった。後者に入っていったところ何か博物館本体と同じような展示が続くが、どうやら開封市の都市計画プロジェクトの展示のようで、歴史的な価値と現代的価値の両面から開封の都市構造を明らかにしようという意図が見える。開封市地下にめぐらされた各種配管の実態なども透明な廊下を透かして見せる工夫がある。意欲的な展示だと思った。

 ホテルに戻り夕方ひと寝入りして鼓楼街に出てみる。事務所や家に土産買わなきゃと思うが、嘗ては袋入りのお茶なんかを買っていたが◯◯茶行みたいなお茶専門店が見当たらない。取り敢えず大きなスーパーに入ったらいっぱい有ったので適当に買い込む。その後「開封灌湯包子」の店に入り包子を蒸籠一つ注文し喰らい帰還す。


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河南省を往く54

 毎度つまんない旅の記録を読んでいただいているわけだが、皆さんの貴重な時間を浪費させているようで心苦しい。しかしvisa無しでの渡航が出来ない今の中国の旅行事情をお伝えして訪中を今後考えている方の参考の一つにでもなれば望外の幸せというものだ。

 さて、当初非常時に備えて日本円も持ち込み人民元に兌換をしようと考えていたが、西安の銀行に行き両替を頼んだところ「うちではやっていないから工商銀行に行け。」と言われて面倒くさくなりそのままだ。人民元は1元も所持していない。

 日本を出る前に支付宝での支払いができるようにカードの登録をしておいた。これもカード会社の都合で突然支払いが出来なくなる故障が生じたので、複数枚のカードを持参して必要に応じて登録すると良いと思う。

 基本的に日本で使用している携帯の電話番号があれば大丈夫だ。SMSが必要な暗証を流してくれる。

 さて、旅の途中で微信での登録が可能になったのでそっちを専ら使用している。外貨との交換手数料が免費になるとかで若干有利なのかもしれないし、支付宝よりは普及の度合いは高いようだ。数年前に日本でアカウントを作成したが執拗に現れる「誰か使用中の友人から確認の手続きをしてもらえ。」というメッセージとともに先に進まなくなってしまった。そんな友人知らないし、こうなったらお寿司屋さんで板前やってる中国人に頼もうかとおもった。しかしそのために寿司食うのもどうかと思い諦めていた。しかし訪中後、改めて1からアカウントを作成してみると普通にカードの登録もできて今に至る。これは便利だ。移動して行くに連れてバスや地下鉄など必要なツールが呼び出され都度登録すると(使用可能なものは)使用可能になる。使用可能なものはというのは中国の身分証が無いと登録できないものがあるからだ。例えば洛陽の地下鉄はダメでバスはバーコードを取得でき使用できた。

 日本の「デジタル改革」が進まないのは、例えばマイナンバーカードが別に便利ではないのと、何か利権のようなものの臭いがしてオリンピックや万博のように「中抜き」とか「税金の無駄遣い」といったおなじみのワードによって国民の信頼を得ていないからだと思う。マイナプラスだっけ?普及のために何兆円も注ぎ込んだが、全部税金だ。官製のプロジェクトは税金さえ注ぎ込めばなんとかなると思っているフシがある。更に担当大臣の人を馬鹿にしたような不遜な態度も大いにマイナス要因になっているだろう。

 中国のデジタル化が進んでいるのはひとえに便利だからである。複数の企業が競争でユーザーの要求に応えて様々なサービスを盛り込み実現していく。便利なものは発展するしそうでないものは淘汰される。

 両者見比べてどちらが資本主義的で社会主義的かわかるだろう。ここから先は書かない。

河南省を往く53

 開封のホテルを出て、北に歩くと劉少奇記念館などがある。しかしここも開いていない。さて、劉少奇は名誉回復したんだっけか。よくわからず。後で調べる。

 って調べたら俺が初めて訪中した1980年に名誉回復していた。

 迷惑考えずに押し掛けたら悪いよなと思って、可能ならば最後に行こうと思っていたyoutuber「菊城小微」さんと「菊城探味」さんの店がすぐ近くの理事庁街だったので急遽訪問、というか急襲す。黄色い看板の「童年炸串」さんがそれ。
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 店内には旦那さんが下校する小学生のための準備をしていたが来意を告げると喜んでくださった。まあこういうときは「いつも日本から拝見しています。」くらいのやり取りになってしまう。この方、非常に優しい良い方で月曜日で博物館が開いてないのを気の毒がって向かいにある博物館を見せてやるよって言う。

 えっ、向かいに?

 そこには开封市汴京灯笼张民间艺术博物馆という看板が掛かった重厚な建物が建っていた。百度地図のストリートビュウでこのあたりは何度もウロウロしていたので「これは灯籠やさんなのかな」思っていたら、それだけではなく灯籠をはじめ民間芸術の博物館であった。

 たまたま店の前を通りかかった一人の紳士を彼は呼び止め「日本から来たのがいるんだが、見せてやってくれないか」と話をしてくれた。早速その紳士は俺を中に入れてくれていろいろな収蔵物を見せてくれた。

 そのコレクションはものすごい数の木彫の板であった。家の改築などで出てくる古い家具や建具の部品を収集して保存している。そのご自身は紙を貼った精緻な灯籠を制作する伝統芸術伝承者である張俊濤氏であった。


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 そこで氏が製作したたくさんのパンフレットを頂き、その後キリスト教会があるから案内するよと言われてお言葉に甘え連れていって頂いた。カトリックの教会で記憶をたぐると1985年に一度河南大学の先生に連れてきて頂いたことがあった。本当に美しい教会で案内してくれた女性信者の方にそれを伝えると嬉しそうに微笑んでおられた。


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 明日は行きそびれた博物館を回ろうと思う。